知識と知恵と電子教科書
ニーズあるんかいな、と思いつつリクエストがあったので、ついったからのコピペにちょびっとだけ補足。
前提
昔tobesetuで小野田セメントの南沢さんのお話をさせていただいたときに、すでにこの問題意識はあったので、暇な人はこのブログか slideshare から探してくだされ。
パラメトロンを発明された、当時東京大学和田研究室の後藤英一さんは、後日親しくなったMIT のマッカーシーに「面白いことを考えたな、なんでそんなに遅い素子を作ったんだい?」と聞かれ、「しょうがないだろ、金がなかったんだから」と答えたとか。
情報も同じだと思うんだ。
今ってなんでも情報手に入るじゃない。ネットさえつながれば即時に、無限に。
だから即時に出てくる情報を一生懸命記憶することの意義がどんどん低下していると私は考えている。
逆に情報がありすぎちゃって、「ゼロベースで何かはじめる」ことに対して対応能力が非常に落ちているのではないだろうか、と今の若い人を見ると思ってしまったりする*1。
じゃあそのために何が必要かということ。
ついったからのコピペ
スクリーンキャプチャとかはしないよ、めんどくさいから。
……ちょっと言葉遊び的ではありますが、辞書的、百科事典的定義を知っているのは「知識」でいいですね。そういうのの上に立つのは「知恵」と呼ぶべきものかも。そして知恵を磨けば知識は表層的でかまわない、と。
というかぼくの思うところの知恵というのは割と濫読というか「使うことを目的としない知識を黙々と貯めこむ」ことで、ある日それが発酵して湧いてくるような気がします。引き出しの数というか。
と考えると、ネットでモノ調べすることの一つの欠点は目的にたどり着きやすすぎることじゃないかと思うのですよね。無論、目的を果たすにはそれでいいのだけれども、「効率を上げる努力をしない」「もっかい検索すればいいと思うので記憶に残らない」という点はあると思うのです。
ただしネットの情報は膨大だし玉石混淆だから検索技術がないと使いこなせない。ならどうするか、というと、やはり若いうちに読書をたくさんしておくのがいいんじゃないかなと思ってます。
本のいいところは出版にそれなりにコストがかかるのである程度の選別がされていること、数も少ないので良書と悪書の評判も蓄積されること、検索性が悪いので読み手の技術が鍛えられること、かなぁと。通り一遍読んでタイトルと目次だけ覚えていれば、知識のマッピングができる。
ということでぼくは教科書の電子化に消極的反対なのです。必要じゃないところを授業中に読みふけって先生に怒られる醍醐味がなくて、なんで学生なんてものをやる意義があろうか。学生のときに必要なものは、検索によって捨てられるところにあると思う。
まあ、勝手な俗説ですがね。
少なくとも大学1・2年ぐらいのときに図書館に篭って面白いと思える本を濫読するって時期があってもいいと思うんですがねえ。というか、大学なんて施設はそういうことに使うためにあるとぼくは思っているんだけど。受身で授業を聞くことなんかより、そういうことはずっと価値がある。
*1:おっさん臭いな、俺。