LibreOfficeのLibreって何よ?
この記事は、LibreOffice Advent Calendar 2013の一日目です。
まあ初日なので暑苦しい話題でも。
LibreOfficeの「Libre」って何?
ぼくは割とこれをあちこちで言うのでいい加減耳タコかもしれませんが、
ラテン系の言葉で「自由」という意味(読み方は「りぶれ」)
です。ラム酒のコーラ割りカクテルの「キューバリバー」のリバーはLibreの英語読みですね。キューバの自由*1。
なんで突然ラテン系なんじゃってことなんですが、英語でいうところの「Free」という言葉が「自由」以外に「無償」という意味も持っている*2 ので、「自由」としか解釈できない「Libre」という単語を使っているわけですね。
「自由」ってどういうこと?
じゃあ、LibreOfficeは何が自由なんだ?と。
ソフトウェアの自由という話になると、どうしても「自由ソフトウェア」の話をせざるを得ないでしょうな。
そもそも自由ソフトウェアの発祥とは……みたいな話はよそにお任せするとして、有名な自由ソフトウェアの定義を参照すると:
- いかなる目的に対しても、プログラムを実行する自由 (第零の自由)。
- プログラムがどのように動作しているか研究し、必要に応じて改造する自由 (第一の自由)。ソースコードへのアクセスは、この前提条件となります。
- 身近な人を助けられるよう、コピーを再配布する自由 (第二の自由)。
- 改変した版を他に配布する自由 (第三の自由)。これにより、変更がコミュニティ全体にとって利益となる機会を提供できます。ソースコードへのアクセスは、この前提条件となります。
ということになっています。誰でもなんにでも使えて、中が覗けて、改造できて、再配布もできて、改造版も再配布できちゃう、ということですな。
うーん。すばらしい。……でしょうか? ホントに?
ぼくはこの思想はとても好きだし共感しますが、たとえば「ソフトウェアの配布自体でお金を儲けたい」、つまるところ、パッケージソフトウェアを売りたい、という欲求とは対立しちゃうのです。だって、第二の自由があるかぎり、再配布は誰にでもできるのだからソフトウェアという形にはお金は取れない。じゃあ「お金を払った人だけが使えますよ」という「使用許諾」にお金を取るとすると、今度は「誰もが使えないといけない」という第一の自由に反する(お金を払っていない人が使えなくなるから)。
まあそんなわけで、少なくとも自由ソフトウェアという思想の「自由」は、ソフトウェアでお金を儲けたい、という人にとっては「不自由」なんですよね。これはどちらがよい悪いではなく立場の違いなわけですが。
で、LibreOfficeはちょっと乱暴な言い方をすると「自由ソフトウェアの立場も重んじるけど、LibreOfficeを元にした有償のソフトを作って売るのも、まあいいことにするよ」という、ふわっとした立場を取っている……と、私は解釈してます。
LibreOfficeはどれぐらい自由なの?
んー、どうなんでしょうねー。
- 誰でも使っても文句はいわない(むしろ使ってくれ)ぐらいは自由
- 誰でも再配布できるぐらいは自由
- いつでもソースコード見られるぐらいは自由
- 誰でもバグ報告できるぐらいは自由
- 誰でも翻訳の提案できるぐらいは自由
- 公式にはサポートしてないアーキテクチャに移植して公開してもいいぐらいは自由
- いきなり1行だけのソース修正してレビューに投げてもいいぐらいは自由
- 「こういうことしたい!」っていうと基本オッケーが出るぐらい自由
- 特定のお客さん向けに一時的*3 にバグ直したやつを上げてお金貰ってもいいぐらい自由
かなあ。
自由だからって俺ら何がうれしいねん?
んーとんーと、私はこう考えるんだけども。
- 利用と配布の自由は結果として無償で利用できること(そして安心して配布できること)につながるけど、それ嬉しくないかな?
- バグにしろ間違った翻訳の指摘にしろ、透明な場で(どういう意思決定がされたかが明らかな形で)対応されたり修正されたりするのは嬉しいんじゃないかな?
- 自分が頑張って直したら、それが取り込まれるのは嬉しいんじゃないかな?
- 自分の日常的に使ってる環境で使えるものを作れるのって嬉しくないかな? それが配布できるのは嬉しくないかな?
- 「お金で安心を買いたい人」「自由なソフトウェアをより良くしつつ生活したい人」がどっちも得する世界って、嬉しくないかな?
まあそんなわけで
こういうことを考えるのも考えないのも自由だけど、でも「あーそういうのってステキだな」って思う人が増えてくれると、私は少し嬉しいです。
明日は oshie さんですね。よろしくお願いします!